Fable: The Lost Chapters

北の方の大陸

ピーター・モリニュー率いるLionhead Studios製作のRPG。すでにXboxでは『FABLE(フェイブル)』として発売されてから1年(日本語版は半年)が経過した。善と悪というモリニューの伝統的なテーマが全編に溢れており、この3日ほど時間が経つのを忘れて没頭できた。攻略まで10時間というところか。満足してスタッフロールを眺めた後Amazonのカスタマーレビューを見たところ、一部でボロクソにけなされているのを見て驚いた。このあたり、国産ゲーム馴れしたユーザー層に合わなかったということ以外にも、モリニュー作品を昔からやってきた人でないと受け入れがたい部分が多々あったということだろうなあ。あと、日本語版ゆえに言葉のニュアンスがうまく伝わっていない可能性も高い。個人的には、かなり高い評価を受けてしかるべき作品だと思う。

善と悪

ブルフロッグ時代の「ポピュラス」に始まって「ダンジョンキーパー」から「Black and White」まで続くモリニューのテーマこそ、善と悪の戦いである。ポピュラスでは神vs神、ダンキーではキーパーvsアバタール、B&Wでは善のクリーチャーと悪のクリーチャー、という具合に、どの作品でもプレイヤーは善とか悪とかのスタンスを取ることができる。Fableにも善の道と悪の道があって、それに従ってエンディングも分岐する仕掛けになっている。行商人を護衛する依頼を受けることもできるし、逆にその行商人を襲撃する依頼を受けることもできる。アイテムも属性が分かれていて、魔法もDivine FuryからInfernal Wrathまで幅広い。慣れていない人には理解しにくいコンセプトなのかもしれないが、善と悪のヒーローをトータルコーディネートできる仕掛けになっているのだ。行動パターンだけでなく、ルックスから戦闘スタイルまで、色んなヒーローを演じることができる。例えば、私の場合にはとりあえず善の道を選ぶことにしているので、明るい色の鎧を着て、聖なる魔法を撃ちまくるスタイルをとっていた。善と悪の装備の性能が変わらなかったり、髪型を自由に変えたりできるのは、明らかに狙って作られている。自分の全身を移すカメラモードがあったりするのがその証拠だ。このモードには「多くのヒーローはナルシストだからです」というチュートリアルがついており、そのあたりにもデベロッパーのユーモアが見て取れる。しかし、このコンセプトは日本人ユーザーに受けなかったようだ。この点については、Heroという概念の受容とも関わっていると思われる。

Hero

日本のテレビゲームの草創期に小学生だった人ならば、誰でも「ゆうしゃ」という肩書きを経験したことがあるはずだ。「ゆうしゃ えにくす」。ドラゴンクエストの主人公である。今から思えば、この「ゆうしゃ」という職業が早い時期に広く受け入れられてしまったことが、いわゆる「洋ゲー」と日本のRPGの間に溝を作る一つの契機だった。ドラクエは、UltimaWizardryのハイブリッドだったが、パーティー制のRPGにおいて「ゆうしゃ」という職業を導入した点が際立っていた。Wizardryにおいて、勇者や英雄という職業は存在しない。「戦士」「僧侶」「魔法使い」「盗賊」等のクラスが存在する中で、悪を倒す主人公のグループ全体こそ勇者であり、英雄であった。一方、Ultimaの主人公Avatorは神の化身であり、悪の化身であるガーディアンとの戦いを運命付けられているHeroそのものだ。Avatorがパーティーを組むことはない。神だからだ。Ultimaはその後第9作の「Ultima: Ascension」でコケるのだが、その間もWizardryMight and Magicといった古典的なタイトルは勇者という職業を作らずに伝統的なクラスを置き続けていた。欧米のRPGにおいては、「勇者=Hero」という肩書きは明らかに特殊なのだ。
モリニューは過去にUltimaを冷やかしている。「ダンジョンキーパー」の最終ボスのアバタールは、UltimaのAvatorであった。アバタールがキーパー必殺の丸石トラップを砕いたときには腰が抜けるほど驚いたが、単独行動するはずのアバタールがなぜか騎士の大群を引き連れて侵攻してきたり、倒すと黄金がざくざく出てくるという設定には笑ったものだ。
このFableにおいて主人公をわざわざ勇者としたのも、背景に何らかのモリニューの狙いがあったと思われる。ギルドの先輩格の勇者たちが妙に権威主義的で嫌味なのは、勇者ギルドという特権階級内部の腐敗をブラックユーモアたっぷりに描くのに一役買っている。悪玉のJack of Bladesが堕落した勇者だというのも、結局は勇者ギルドの内紛に世界が振り回されているという「しょうもなさ」を描こうとしているのであろう。勇者ギルド内部をツアーが巡回していたり、勇者ギルドで出世すると闘技場で戦うことになったり、アルビオン市民は勇者という職業を一種のエンターテインメントとして見物して楽しんでいるのだ。当の勇者たちは、みんな出世欲がむき出しで、お世辞にも高潔な連中には見えない。ギルドで一番大きな部屋は酒場になってるし。
こういう演出の狙いを地味ながら裏付けているのは、主人公がJackを倒した後の勇者ThunderとKnothole Gladeの村長のやりとりだ。というより、村長が一方的にThunderを追い出しているのだが。村長いわく、「もう勇者は結構だ!この1年で初めて、襲撃事件や誘拐事件もない日が続いているのに、わざわざ勇者など必要ない。わしらをほうっておいてくれ!」。実は、平時の勇者ってただの乱暴ものなのだ。それでも村を警備しようとするThunderは、この事実を受け入れることができていない。戦争が終わった後の退役軍人のイメージに近いかもしれない。
とか、このへんの文脈はベテランのゲーマーか、それなりに文系の人でないと楽しめない設定ではないかなあ。私などは、勇者をちゃんと滑稽に描いているゲームを久しぶりにみたので大喜びだった。

貿易

ただ、明らかに設計ミスでないかと思われる点もある。特に致命的なのはアイテムの価格メカニズムだ。チュートリアルとかマニュアルには「別の街」でアイテムを売れば価格差の分の儲けが出ると書かれているのだが、実際のゲームはそうなっていない。基準価格は基本的に全てのショップで一律だからだ。そうすると貿易の余地などなくなりそうなものだが、さらなるどんでん返しが存在した。なんと、同じ店で売り買いを繰り返すと主人公は必ず儲かるのだ。アイテムの在庫が多いと価格は下がり、少ないと価格は上がる。一見すると合理的な仕組みだが、Fableの市場は驚くべき構造を持っていた。アルビオンの商人は売却する個数に関わらず同じ値段でアイテムを引き取ってくれる。このため、同じアイテムを大量に買って大量に売却すると、同一地点での裁定取引が可能になってしまうのだ。私の場合、ポーションを売り買いしていると10分もしないうちに所持金が10万ゴールドを超えた。
しかし、ゲーム後半のアイテムの中には、この方法を使わないと明らかに買えないようなものもあり、そういう点ではわざとなのかなあとも思う。ただ、私のようにゲーム中盤でこの仕組みに気付くのはまだいいとして、序盤で気付いた人はモチベーションが下がっただろうなあ。PC版で直ってなかったということは、ユーザーはそれほど気にしなかったということなのだろうか。

The Lost Chapters(10月10日2:02追記)

PC版に追加された要素についても書いておこう。以下ネタバレなのだが、The Lost ChaptersではJack of Bladesとの再戦がある。ギルドの奥でJackを倒した後、北の方にある大陸にJackの亡霊みたいなのが復活するという設定だ。おかげで3時間ほどゲームが延びた計算になるのだが、正直言ってそれほど良い判断ではなかったように思う。明らかにエンディングっぽいムービーが流れた後に「ところで北の方に魔物が現れました」というのは変でしょ。結局魔物がやたらでかくなるだけだし、武器が強くなってSilver KeyとSilver Key Chestが増えて、でも私の戦法はいつも通り敵を引き付けてからDivine Fury3連発だし全然変わってない。ラスボスが結局ドラゴンというのも何だかなあ。ゲーム全体のまとまりという点ではXbox版の方が良かったのではないか。PC版の方がグラフィックを初めとして全体的に仕上がりがいいのは確かだが。

結論

こういう事情で、Fableは好き嫌いの分かれるRPGになっている。ただ、作りこみ方はなかなかのものであり、随所に込められたユーモアは分かる人には楽しくて仕方がないのではないか。全体的に短めだが、戦闘に費やされる時間が無駄に多い他のRPGと違い、ストーリーラインもサイドクエストもきちんとロールプレイの王道を行っているように思う。Psychonautsほどではないにせよ、色んなステージもきちんと作りこまれていた。北米でバカ売れしたのも納得させられるゲームだった。